2013年07月25日

岡田以蔵

これは、いわゆる『人斬り以蔵』ではなく、史実の『岡田以蔵』…ウィキと記事とにらめっこ+個人的な感想とか考察っぽい物。フィクションの、格好いい以蔵しかいらん、って方は、たぶん読まない方がいいです。ついでに、周囲も見方によってはちょっと酷いので…




彼の人生の最初の分岐点は、幕末期そのもの、土佐沖に外国船が現れたことに始まるようです。
ペリーの黒船来航がたまたま最初なだけで、あちこち植民地を広げていた国は、この時期に軒並み、日本に目を付けた格好になって、あっちこっちかからやってきてます。
で、この船影に対する防衛の為に、父親は足軽として徴募…自分の意思で名乗り出ているとはいえ、元が土着の、村レベルでは実力者みたいなものなので、張らなければならない見栄とか、ちょっとは欲とか、色々な事情があったんでしょう。あるいは、打診されたら断れなかった可能性も。何せこの頃は身分社会です。しかも士と農の間には果てしない差があります。――つまるところ、岡田家は地方のまとめ役として名字をもらっていただけで、武士階級に昇格したのは、この幕末という混乱期が始まった頃、ってことになります。一応、出世なんだけれど、そもそも「足軽」ってのは先兵…戦国時代から捨て駒にされて当然な、武家とはいえ最下級。はっきり言ってこの時期には、武器を持てない、戦わなくてもいい農民の方が遙かに死亡率が低い。でも、長年の安定期を破る可能性の高い時期に、見かけは出世、実は捨て駒な身分になっちゃったんです。

で。
これは一代限りではなく、そのまま岡田家は最下層武家階級になっちゃった。ので、長男である以蔵は自動的に、父親の後を継ぐことになります。
時系列としては、岡田家の人はこの後継の為に初めて、刀を真剣に振るうことになり、武市半平太に師事を仰ぐことになる……そりゃ、あるかも知れない、だったとはいえ、先祖伝来の、身分縛りや惰性で武士になったわけでは無く、郷土と国を護る、と気合いを入れた父親の影響下で、戦うために武士になったんで、自分の意思とは半ば関係なく、技術を求めるしか無かった、といったところでしょう。
ちなみに、初期段階では『中西派一刀流』という流派で学んでいます…これは九州地方…土佐に比較的近い地域のもの。

で。上下でいったら上士の身分の武市は、江戸に出て、鏡心明智流剣術を江戸で学ぶことにします。そのときに、以蔵も同行しました。今も昔も、学ぶなら都会の方がランクは上だし。ただ、その旅費を岡田家が出すのは非常に苦しく(武家階級に上がったと同時に、税としての徴収はともかく、自家生産は身分制度上、不可能になったので、あるいは、父親の時代よりも困窮した可能性も…)、一度目は武市の口利きで豊後岡藩(現在の大分県の一部)の滞在許可と直指流剣術を学び、やがて、これも武市の口利きで、参勤交代制度を利用して江戸へ出て、武市一派に合流し、鏡心明智流を学びます。……つまり、以蔵は親の代の因縁をスタートに、三つも剣術を梯子して追いついた、んですね。
……推察するに、足軽として徴募・徴兵された「新しい、戦うための捨て駒としての足軽」になった人は他にも多くいたでしょう……戦国時代には槍をもって、本番前に先陣切って特攻するのが、足軽のお仕事です。実体験が少ないとは言え、その程度なら知っていたことでしょう。
そんな中で、武市が色々と取りはからったのは、以蔵がそれなりに腕を上げる見込みがあったから、という辺りが実際の所だと思われます……何せ、藩やら国やら、200年以上続いた安定期をぶち破って、技術レベルの遙かに高い相手に戦争をしなきゃいけないかもしれない、でも土下座してお願いしたら植民地化…国民総員で奴隷階級レベル、な状態でも命だけはどうにかなったかも知れない、そんな最中の、下準備の段階での上を下へのパニック状態のご時世。戦時には見込みの有無による人選で無ければならない、そんな時期です。

祖父の代には武家ではなかった自分を足軽としてだけでなく、実力を買われて取り立ててくれた武市に以蔵が心酔するのは、わりと自然の成り行き、という形でしょうか。ちょっと前なら、声をかけるのも憚られる人、っていうか、相手の性格次第では、声をかけたという事実だけでバッサリ殺られても普通、な間柄、ですから……下の階級なら、上は斬っちゃっても良い時代なのよ、江戸時代って。

ちょいと飛ばしますが、その後、安政の大獄をきっかけに武市が土佐勤王党を旗揚げ。以蔵と、その弟も実行部隊として加盟します。(武市側の成り行きはややこしいのでここでは割愛…) と、同時に、土佐勤王党に害をなす、と判断した人を、武市の意思を伺わずして、暗殺にも手を伸ばしています。……自己主張すれば止められると察したのか、彼の忠誠心の一端だったのか、その辺りはやや不透明ですが(いかんせん、資料らしきものがあんまりないらしい)……ここで、当時に彼についた二つ名は……

「天誅の名人」、です。「人斬り」は後年のフィクション作品で初めて出てきた言葉で、この当時には無かった、らしいです。(陰口とか資料に残らないレベルでは謎、ですが)。
また、土佐勤王党の中核に居た頃、坂本龍馬の紹介で勝海舟を、さらに勝の紹介でジョン・万次郎の護衛をした、と言われています。ただ、ジョン・万次郎の方は資料の時系列的には会わないので、創作の可能性も高い模様。

勝海舟とのエピソードとしては、3人の暗殺者を1人で切り捨て、一喝で残り2人が逃亡。勝は切り捨ての兼を、そこまでする必要は…と諫めたようですが、その反論、自分が彼らを斬っていなかったら勝の首は飛んでいた、というのに、「一言も無かった」と言わしめているそうです。

おそらく、この辺りが「武士・戦士としての岡田以蔵」の全盛期、と思われます。


1863年、八月十八日の政変、と呼ばれる事件が、彼の何度目かの転機になります。
これは会津藩・薩摩藩を中心とした公武合体派が、長州藩を主とする尊皇攘夷派を京都から追放したクーデター事件、で、土佐勤王党と直接の関わりは無いのですが、この直前、以蔵は土佐を脱藩。何があったか、の記録は無いようで、詳細は分かりません。現実としては、以蔵の脱藩と八月十八日の政変の、ほぼ同時期から土佐勤王党の失速が始まった、という事実があるのみ。
党の記録では、以蔵は脱藩後、長州藩邸の世話になり、さらにその後は漁色(酒と女だね)、やがて、借金を繰り返して、坂本、武市にも見捨てられる有様、そのごは無宿者(ホームレス、ですね)に身を落とす。

全盛期とのこの入れ替わりっぷり。この変遷。これって、隙間を考えると、よほどのことをされたか言われたか、あるいは農家上がりをけなされたか。とにかく、記録には残っていない「何か」がなければ、ここまで一転することはない、と、私は思うのですが…… あるいは、汚れ仕事が嫌になった、という可能性も…

……ココだけ見ると、坂本・武市も案外、狭量に見えてしまう…。なんだかんだで、尊皇攘夷派の第一歩たる土佐勤王党の立役者の一人であることには違いないのです。この認識は、処刑事情からもうかがえます。


1864年、武市以下、土佐勤王党は幕吏(幕府直下の役人組織)に捕らえられ、土佐に搬送。その地の幕吏によって、以蔵は拷問の末に泣きわめきつつ、自らの罪状や天誅(暗殺行為)と、その過去の同志の名を白状し、打ち首・獄門。享年28才。

武士として見れば、情けない行為かもしれません。でも、ね。
武市も坂本も、何らかの事情で身を持ち崩した以蔵を見放した。どんな事情かは、全く記録にないので分かりませんが、前半から考えれば、容易いことだったのでしょうか?
それでも、その時点で恨みを抱いて、土佐勤王党に関してや過去の所行を自分から幕府側に申し出れば、もっとマシな待遇があったかもしれない。
捕らえられた時点での以蔵は、武士とはお世辞にも言えない、ただの無宿者…この時点で、家族のいた農民時代よりも遙かにキツい生活だったはずです。
その上での拷問。しかも、結果的には彼自身も処刑されている。

辞世の句とされるもの…「君が為 尽くす心は 水の泡 消えにし後ぞ 澄み渡るべき 」
「君」は、誰を指すのでしょう。たぶん、戦力としてとはいえ自分に目をかけた恩師であり、彼の人生を大きく左右させた、武市……いや、他にだれかいた可能性もありますが。
そして、学があったとは思えない以蔵の人生…ストレートに捕らえていいのではないかな、と。
「消えにし後ぞ 澄み渡るべき」……相手からは消えてしまった恩であっても、獄中では「澄み渡っていた」と、彼は思っていた……そう、捕らえられる事がではないでしょうか。

とにかく、岡田以蔵の同時代人の見る人物像というのは、ほとんど資料に残っていないので、かなり少量の行動から伺うことしかできません。
そして、この上下の激しい激動の人生は、たったの28年。

彼から見れば、親の代から勝手に始まった人生の中で選択した前半での努力、それらと忠義を無視同然にされたともとれる苦痛、裏切られた可能性の苦痛、そして、疲弊した後での拷問、という苦痛。
これらから想像できるのは、伝承とは裏腹に、以蔵の感情は時代に翻弄されたなかでも、かなりの悲劇的なものではないか、……と、いうのは、私の想像です。


土佐勤王党崩壊そのものに関して、すこし。
200名を超えた加盟者の中で、武市半平太は切腹を許されました。…武家として処分を受けるには、かなり誇り高い、上等の処遇で、反逆者扱いとしては赤穂浪士(これも一種のテロみたいなもんなのよね…)と同等以上の好待遇です。
そして、以蔵を含む4名は打ち首となりましたが、この時代での処刑等級としては、勤王党総員、およびその親族郎党の全てが処刑されるのがほぼ常識の時代、なのですが。
勤王党に関わった一派で処刑されたのは、たった5名。親族・縁戚どころか、家族とされる人物も、上からの処遇は免責、おとがめ無し、でした。――――これ、江戸時代の制度では、おそらく異例なほどの温情です。


彼らの人間関係が実際にどうであったのか、記録が語ることは、おそらくありません。
状況から、推測、憶測で推し量るしかないことがほとんどです。


最後に。
岡田以蔵を最初に「人斬り以蔵」とあだ名したのは、明治末から大正の小説家、真山青果という人の小説です。1953年の未完の作品、そして、1958年の『人斬り以蔵』……で。これらの作品では、以蔵はマルクス主義に傾倒していた、という話になっているそーな。…なんか色々と突っ込みたいんですが…(^^;
で、普及したのはやっぱり、司馬遼太郎から。


……で。
岡田以蔵の慰霊祭に該当するものは、なんと、2010年のドラマ『龍馬伝』の絡みで初めて、だったらしい。


なんか、ね。
以蔵くんは、ある意味、純粋で、とっても、人間らしい人間だった。そんな印象を、私個人は持つんです。
【夢をぶち壊す史実(人物)の最新記事】
posted by 龍魔幻(りゅーま) at 00:48
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この記事へのコメント
うわー、人斬り以蔵の考察だから、ちょっとびくびくしながら読んだのですが、すごくわかりやすく、以蔵の人物像に肉薄した考察でした。おもしろかったし、納得しました!
さすがです!
そして思うのは、以蔵の人生がたったの28年という事実。
短いですよね・・・
人生の大半を捧げた剣を捨て、無宿人に身を落とすほどの何が以蔵を襲ったんだろう・・・
以蔵の最期は知ってましたが、辞世の句を残していたとは知りませんでした。
純粋な人だったんだな、と思いました。
Posted by ふじ at 2013年07月27日 19:53
うわぁ━━━━!!
以蔵の短すぎる人生の中で脱藩の前と後でそんなに違うとは知らなかった!
数少ない史料からうかがえる以蔵はちょっと生き方に不器用だったんだと思います(そうでないと以蔵浮かばれないよ)。
けど人間としては魅力的で、だから遅ればせながら今ちょっとしたブームになっているんだと思います。
Posted by ねこのこ at 2013年07月28日 00:00
>ふじさん
短いですよね…今だったら院卒プラスちょこっと。脱藩からの経緯も勤王党の記録に残っているのに、きっかけになる土佐脱藩→長州藩邸へ、の理由だけがすっぽ抜けてるのが…なんか邪推も出てきたり来なかったり…借金云々は記録してるのに…とか。(最後まで足取りは捕らえてた、ってことですし…) 辞世の句はWikiに載ってたんですが、解釈は我流です…けど、すっごく解りやすくて寂しいことを、首斬られるって解ってる時に残してることになるんですよね…。


>ねこのこさん
本当に不器用とか愚直とか純粋とかいう言葉が似合う人生だと、私も、書きながら思いました。以蔵の元の農家階級にも、普通に、いっちゃえばチクリ制度みたいなのがあるんで(^^; ホームレスになるより、とっととちくっちゃえば…腕前の保証はあるんだから影での護衛任務とか、ひょっとして新撰組に転向なんて道もあったかも知れないんだけど、やらなかったんですよね…(その程度の転向の取引は普通にありな時代なのに)……幕末とか『人斬り以蔵』ブームだけじゃなくて、現代だからこそできる、本来の人物の再評価っていうのも、普及すると良いなぁ、と思える人だと思います。
Posted by りゅーま at 2013年07月29日 19:40
「史実の岡田以蔵」- いいですねえ。史実の以蔵も十分格好いいと思いますよ。私も司馬遼太郎の「人切り以蔵」から入りましたが、どうも納得できず、いろんな資料を読み漁っております。
 以蔵の身分については、岡田家は既に1788に、つまり以蔵の5代前に郷士株を取得しており、それができたということは、ご先祖はそれだけの財力を持った裕福な本百姓であったということですね。以蔵の父親が、郷士より身分の低い足軽の徴募に応じて足軽格を得たということは考えにくいという研究者もおりますし、また、「幕恋」さんの仰る通り、父親の義平が時代を見据えて、足軽よりは格上だが、藩政に加われない郷士格以外に、軽格ではあるが藩政に係わる可能性のある足軽格をも取得したのではないかとの説もありますね。その場合でも、長男である以蔵に郷士格とともに足軽格も引き継がせたのであって、父親と同じく郷士であり、足軽としては、藩からお声がかかった時に出仕すればあ良かったのではないかと考えるのが自然であると思います。
 と言うわけで、以蔵が軽格の足軽ゆえ蔑まれていたというのは間違いのようですね。私は、むしろ、あまりにも剣の腕が立ちすぎ、そのため、初期のころは武市半平太に大変かわいがられたため、尊大になり、嫉妬されたのではないかと思います。馬鹿で学がないというのも、学問は土佐の漢学者の竹村東野の塾で学んでいたので、当時の先生は今と違ってかなり厳しかったようなので、まったく勉強しなければ、破門ほどのことはなくても、塾から追い出されていたでことでしょう。しかも以蔵の辞世の句を見ればかなり感動的で、非常に潔く、とっても無学とは思えません。
 このように、岡田以蔵についてはかなり事実誤認がありますので、まだまだ研究の余地がありますね。やはり、一番知りたいのは、土佐勤王党を離れてから、せっかく坂本龍馬と勝海舟と良い関係ができたのに、どうしてずっと彼らと一緒に行動しなかったか、あるいは少なくともあの危険な京都をどうして離れなかったかということですね。龍馬と一緒であれば、龍馬もあのようにあっさり暗殺されることもなかったでしょうし、勝とも一緒であれば、無事明治まで生き延び、それなりに出世していたであろうに。もっとも、そのような幸せな人生は以蔵には似合わないだろうなとも思い、なかなか複雑な心境です。
 ちなみに、土佐出身の作家である鏡川伊一郎氏が2010年にお出しになった「龍馬が勝たせた日露戦争」では以蔵に関する章もあり、お処刑されたのは替え玉であって、以蔵はかつて護衛したことのあるジョン万次郎の尽力でアメリカに脱出したとの説が披露されておりますが、これも興味深いですね。

Posted by K at 2013年10月09日 10:34
>Kさん 色々ありがとうございます。私、その辺、本気で全然知りませんで(^^; ほんとーに、この記事書いた時点ではゲームのお話と上記リンク先のWiki記載の情報だけしか……orz まぁ、なんていうか、真田幸村は知っていても、戦国時代がらみのゲームやってる夫に「真田十勇士」って話振られてわかんないアホの子なのでorz
 無学云々に関しては、当時の全体の基準からしたら、文字の読み書きが出来るだけで上のほうだろうけど、辞世の句が残る人の大半は読み解きが必要なレベルだしなぁ、という感じで。
 坂本、勝、勤王党との関係に関しては、先日、ちょっと「とりあえず筋が一本出来るかな?」って感じの説が書いてある本みっけたので、近日、追補として組み立ててみたいな、と思ってます。

フィクションの「マルクス主義の以蔵」も凄いなぁ、と思いましたが、初出が21世紀のアメリカ脱出説も凄いですね…
Posted by りゅーま at 2013年10月09日 16:18
こんばんは!りゅーまさんの以蔵考察、興味深く読みました。私は以蔵になら斬られて死んでもいいや、と思っているイタい人間でございます。
そもそも乙女ゲー(幕恋)から入った人間なので、正直事実もねつ造も創作もごちゃまぜになってる残念思考ですけど。

私の勝手なイメージで、以蔵はろくに読み書きも出来ず、武市先生に犬として飼われて、それしか生きる希望がない、みたいな捉え方をしていたんですけど、実際には当時そこそこ寺子屋が浸透してて識字率は高かったとか聞きますしゲーム上では主人公に手紙書いたりしてますし。実は頭良かったんでしょうか、最後は自滅っぽいですけど。

足軽上がりの一人の武士の記録なんて、そう残されるものではないんだなぁって感じました。
とりとめもない感想ですみません。
Posted by 渡会 at 2013年10月17日 20:41
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